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ドラマ『MIU404』の描く「正義」と「悪」。それは単純な対立関係なのか?

Amazonプライムビデオにて、ドラマ『MIU404』全11話を見た。

すごく面白かった。バディもの、警察お仕事ドラマ、社会性とエンタメ性の両立。盛りだくさんで1話1話の満足感がとても高かった。さすが脚本・野木亜紀子さん。

近年、社会的なテーマを扱うドラマ脚本家として名前を上げられる人はどんどん増えているけど、野木さんの作品はカバーする範囲が広く、メッセージも直接的でとても好感が持てる。今後の作品もすごく楽しみだ。

見ていて感じたことを一部、記事にまとめておく。

MIU404の「正義」

「正義の暴走」とか「正義を振りかざす」なんて言葉がある。正義について真剣に考える人たちをあざけるような、嫌な意図でこの言葉が使われるシーンを、残念ながらよく見かける。

だけど『MIU404』で志摩と伊吹が指針にする「正義」は、一つ一つの出来事や個人の事情と向き合って、状況に合った公正な判断を重ねていくものだ。そもそも「暴走」「振りかざす」をしないように気を付けることも、正義の遂行に含まれる。

そして正義は、意識して公正でいられるように努力しないと、何も考えなければどんどん失われて踏みにじられてしまう。公正について考える余裕のない人、公正よりも自分の利を優先する人で世の中は溢れてるからだ。

それゆえに、警察という立場、銃や警棒を所持して人間を取り締まる権力を与えられた彼らが、正義が失われないように努力していく責任を負う。もちろん自分たちが正義から外れた行いをしていないか、常に自分に、互いに、目を光らせておく必要がある。

『MIU404』はそのことを意識して作られたドラマだと思う。警察が持つ力の強大さとその責任に、こんなに自覚的な警察ドラマは珍しい。

※東京オリンピックの期間中、都心、それも普通の公道を警棒むき出しの警官がウロウロしていたけど、やっぱあれは権力の使い方としておかしいと思う。あれこそ権力の「暴走」だし「振りかざし」だと思う。

信念は「間に合わせる」

ドラマ全体を通して、志摩と伊吹の言う「間に合わせる」「間に合った」という言葉が印象的だ。

作中でピタゴラスイッチの仕組みを例にとって説明されていたけど、人間はふとしたときに足を踏み外してしまうものである。つい「自分には関係ない」「自分は大丈夫」と思ってしまいがちだが、条件が整えば誰でも道を誤る可能性はある。

志摩と伊吹は「機捜」という立場もあって、犯罪に手を染めてしまった者が、深く足を踏み入れる前にできるだけ早く、手を引っ張って止めることを自分たちの活動の目標としている。

「誰にでも起こりうる」という前提があるからこそ、犯人の事情にも耳を傾けるし、「悪人」とレッテルを貼って切り捨てることはしない。

「ラスボス」久住について

菅田将暉演じる久住は、大小さまざまな犯罪を繰り返し、名前を変えては警察の手をすり抜ける、悪質な犯罪者である。最終話でついに志摩と伊吹は久住を捕らえることに成功するが、その後久住は警察の取り調べに対し、一切何も語らない。

逮捕直後、志摩が久住に「どこで育った?」と尋ねたとき、久住からの返答はこうだった。

「何がいい? 不幸な生い立ち、歪んだ幼少期の思い出、いじめられた過去。
ん? どれがいい。俺は、お前たちの物語にはならない」

このセリフは『ダークナイト』のジョーカーというキャラクターを彷彿とさせる。ジョーカーは、毎回違う悲しい過去をでっちあげては披露するが、実際のところはどんな人間なのか、内面を一切明らかにしない。

だからこそジョーカーは人間を超越した絶対的な「悪役」たりうる。悪に染まった原因なんてない、葛藤もない。彼は「悪」という概念を擬人化したかのような、純粋な悪役なのだ。

思えば久住の鮮やかな紫色のジャケットは、『ダークナイト』のジョーカーを彷彿とさせる。では、『MIU404』でも、久住を絶対的な悪役に留めるために背景を語らせなかったのだろうか。

いや、「俺はお前たちの物語にはならない」と言っている時点で、久住は何かを抱えていると言っているようなものだ。だから『ダークナイト』のジョーカーとは違う。むしろ、久住が過去を語らないことが、これ以上なく彼が人間的な葛藤を抱えていると視聴者に伝えているのである。

ジョーカーも久住も過去を語らない。しかしジョーカーは人間を超越した悪役に見え、久住は幾度も傷つき心を閉ざしたボロボロの人間に見える。

『ダークナイト』はとても好きな作品だが、人間的な葛藤や動機を持たずに悪事を繰り返す「絶対的な悪人」であるジョーカーは、志摩が指摘する「誰でも道を踏み外す可能性はある」「踏みとどまることはできる」という大事な原則を、見えなくさせる存在にもなりうるのではないだろうか。

「絶対的な悪人」と「悪人ではない人」を最初から分けていたら、志摩と伊吹は「取り返しのつかないところに行ってしまう人」の腕を掴めなくなるのではないだろうか。

だから久住というキャラクターは、人間的な強い葛藤を抱えたキャラクターとして描写されたのだと思う。彼を引き留めるタイミングは、これまでにあったはずなのだ、と。

※2019年公開の映画『ジョーカー』も、「正義」の描き方はだいぶ危ういと思う。こちらも、近年の作品なのできっと意識してるのではないか。>>過去の記事

※久住は東日本大震災のときに何かを体験した人物なのではないかと示唆する台詞がある。

「みーんな泥水に流されて、全部なくしてしまえばええねん。神様は俺よりもっと残酷やで。指先ひとつ、一瞬で、人も街もぜーんぶさろてまう。全部のうなって、それでも10年経てばみーんな忘れて、終わったことになっとる。頭ん中の藻屑や」

このセリフを踏まえて、久住の「俺はお前たちの物語にはならない」という言葉を思い返すと、久住の抱える葛藤の正体に少し思い当たるような気がする。延期にはなったがついに開かれたオリンピック。「復興」の二文字はどこへ?

異性愛描写はほぼなし

志摩から桔梗へ、伊吹から羽野へのほんのりした好意は示唆されているが、描きたいドラマはそこじゃない!とばかりに、徹底的に異性の恋愛を脇に追いやるドラマなのが最高である。

一方で、志摩と伊吹の関係は丁寧に描かれていて、相手を思いやり合う男性同士の親密な関係性は、性愛的な解釈も可能だし、互いを傷つけあうホモソーシャル的コミュニケーションを回避しているように見える。

志摩は伊吹を心配しているし、伊吹も志摩を心配している。そういった「ケア」が内在する男性同士の関係性は、これまでほとんど描かれてこなかったもので、これからもっと描かれてほしいものである。

陣馬と九重の関係にも同じものを感じるが、こちらの関係性はさらに、年長者が若者をサポートし、成長を助けるという普遍的な理想の関係性が描かれていて、見る者の心を大きく動かしたと思う。

また、このドラマは女と女の親密な信頼関係、疑似家族的な関係性を描いていたのもよかった。桔梗と羽野は「伴侶」といっても遜色のないような関係であり、それを最終話で決定づけてくれたのが本当に嬉しかった。

個人的お気に入りの回

最後にお気に入りの回を紹介して終わる。

一番好きな回は5話である。外国人留学生・労働者への仕打ちは、今一番メディアで大きく扱ってほしいトピックの一つ。有名俳優勢ぞろいのゴールデンタイムのドラマで、堂々と描いたことの影響力の大きさを考えると、嬉しいしもっともっと増やしたいと思う。

一番泣いちゃったのは3話。「信じたい」という気持ちが他者に与える希望を思って泣けてしまった。志摩と伊吹のキャラクターがとてもわかる回でもある。