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映画『ミッドサマー』感想/「セラピー映画」だからこそ恐ろしい

たぬきです。

『ミッドサマー』公開後、「セラピー映画」と絶賛する人が続出しました。一方で、「ミッドサマーをセラピー映画と言うなんて、ヤバいよ。ホルガの民候補だよ」みたいな意見もありました。

私はどちらかというと前者の意見に賛成で、確かにある種の「救い」を与えてくれる映画だと思いました。『ミッドサマー』は「セラピー映画」として見ることもできるからこそ、より「ヤバい」のですよ。

『ミッドサマー』が与えてくれる「救い」の受け止め方は、もちろん人それぞれ。この記事では私の解釈をまとめます。

※以下、『ミッドサマー』『ヘレディタリー』のネタバレがあります。まだ映画を見ていない人は注意。

因果応報、クリスチャンざまみろ!の物語じゃない

ラストの展開を「裏切られたダニーがクリスチャンを見切った/罰を与えた」と読み取って、「そうだそうだ、クソ男とはおさらばだ!当然だ!」っていう方向にすっきりした人もいたと思います。

でも私は、クリスチャンはあんな目に遭っても仕方ないような「クソ男」だとは思えませんでした。

物語冒頭のダニーは、他に頼れる人もなく、クリスチャンに依存してしまっています。クリスチャンもそれがわかっているので、別れることができません。二人の心の距離はとっくに離れているのに、恋人らしい振る舞いを取り繕っています。

この時点で、一方的にクリスチャンだけが悪いわけではないと、私は思います。

ダニーに対して誠実であるとも言えませんが、あの態度の理由もなんとなくわかりますよね。相手に依存して怒ったり泣いたり不安定なダニー。旅行を内緒にされていたことに腹を立てるダニーは、はっきりと「面倒くさい」存在として描かれています。ダニーとクリスチャンの心の距離は離れてしまっていて、ボロがどんどん出てきてしまう。

クリスチャンの友人たちがダニーを悪く言い合うところは、男が集まって女を貶める「ホモソーシャル」の有害性を感じるシーンです。クリスチャンは直接的には加担しませんが、否定もしません。

クリスチャンは一緒になって悪口を言うほどの「クソ男」ではないけど、ダニーをかばうほどの愛情も残っておらず、疲弊しているのでしょう。

まあ、後の論文をめぐるジョシュとのやりとりを見るに、「善人」でもなさそうだと思いますけどね。しかし、ダニーを直接的に傷つける意思は、クリスチャンにはありません。彼女を救うことはできなくても、見せかけだけでも恋人として振る舞おうとしている。

ダニーに対する「裏切り」行為の象徴であるセックスシーンも、トリップ状態で彼の意思確認もされないまま行われていたので、あれはむしろクリスチャンに対する「レイプ」に近いと思います。よく考えてみたら、クリスチャンはダニーを裏切ってない。ダニーは彼の意思を確認することもなく、彼に裏切られたと思って涙を流してしまった。

もっともっとクリスチャンを「クソ男」として描く方法はあったと思います。ダニーに対して加害的な態度をとらせたり、他の女性に下心を抱かせたり。でも、そうしなかった。

「因果応報」として最後のアレを当然の報いだとするには、クリスチャンの罪は弱いと思います。

では、クリスチャンが「死んでスッキリ!」するようなクソ男でなければ、『ミッドサマー』で描かれる「解放」とは一体なんだったのでしょうか。

ダニーは自分の感情と決別した

ラストの笑顔には、ダニーが自らの感情や依存に見切りをつけた解放感が表れているのだと思います。

あの瞬間のダニーは、たぶん「ざまあみろ!」とすら思ってません。クリスチャンのことなんかもうどうでもいいんじゃないかな。それこそが解放だった。ダニーがけりをつけたかったのは、自分自身の依存心だったから。

クリスチャンちょっと可哀想。でも、クリスチャンは自分でどうにかしようともしなかったですから。

ダニーがホルガの信仰に染まったというのも、ちょっと違うと思います。

他の人も指摘していることですが、生贄に共鳴して泣いたりわめいたりしているホルガの民たちとは違い、ダニーは微笑みました。あの笑顔には、非常に個人的な喜びや感傷が込められていた。だからラストの時点で、混乱はしていたとしても、正気の決断だったんじゃないでしょうか。

ダニーはホルガの儀式に巻き込まれたのをいいことに、結果的に自らのしがらみを断ち切ることに成功したのです。

『ミッドサマー』と『ヘレディタリー』は似てる?

『ヘレディタリー』と『ミッドサマー』の展開が似ているというところにも注目したいです。

監督はインタビュー等で「女性キャラクターと自分を重ねがち」「今回はダニーに自分を重ねた」と言っていますが、『ヘレディタリー』では少女チャーリーに自分を重ねたのかもしれません。

『ミッドサマー』ダニーはホルガの村で「女王」になりましたが、『ヘレディタリー』のチャーリーは「地獄の王」になりました(そして、男性の身体に入った)。ダニーもチャーリー(と兄のピーター)も、これまでのうんざりするような日常から自由になり、大きな運命の流れの元に解放されます。

アリ・アスター監督によると、この2本の映画は監督本人が体験した、家族や恋愛のつらい記憶を基にしているらしいです。

監督も、ダニーやチャーリーのように解放されたいと思った、あるいは解放された経験があるのかもしれません。そういう意味では、監督がこの映画に込めたメッセージは「救い」であり、確かに「セラピー映画」とも言えるのかもしれませんよね。

ホルガのような団体を肯定しているわけではない

『ミッドサマー』には、見る人を楽にさせるような「解放」が描かれていると思います。しかし、「この映画をセラピー映画として受け入れるのは危険。ホルガは有害で欺瞞だらけの宗教団体」とする意見もありました。

ホルガがどう考えても危険な団体だというのは、私も賛成です。『ミッドサマー』を「セラピー映画」と形容している人のほとんども、それをわかっていると思います。

ダニーとクリスチャンをドラッグ浸けにし、ダニーを女王に仕立てあげ、最後にクリスチャンを選ぶように仕向けたのは、間違いなくホルガの民たちです。

不安定なダニーの心につけこみ、巧妙に「解放」へと誘った。その先に求めるものは、仲間に引き込むことなのか、外部からの血を入れるためにダニーを利用することなのかはわかりませんが、こういったやり口は間違いなく、現実のカルト宗教も実践しているものだと思います。「救い」を与えて、信じ込ませる。

だから、いくらダニーが救われたからって、ホルガの行為に正統性は全くないです。むしろ、弱味につけこむ行為であり、とんでもない危険なカルトだということは、揺るぎません。

ホルガは救いをくれる。セラピー効果がある。だからこそ、恐ろしいのだと私は思います。

弱った心ではどうにも抗いがたい邪悪な信仰。抗い続けている最中はつらいけれど、受け入れてしまえばふっと心が軽くなる。『ヘレディタリー』もそんな映画でした。アリ・アスター監督が描きたい物語って、これなのかな。

ラストのダニーの笑顔や、ヘレディタリーのラストシーンには、視聴者側にもある種の解放感を与えます。その解放感に救われた結果、「ホルガの民」ならぬ「アリ・アスター教」に入信する人がいるのではないかと、怖いです。

なので、アリ・アスター監督が抱える精神性って、確かにちょっと危険ではあると思います。言外に「君も全部捨てて大いなる運命の流れに身を任せてみれば……?楽になるよ~」と言っているようなもんじゃないですか。ただ、それがあまりにも魅力的で、見せ方がうまくて、唯一無二の世界観で構成されているので、目が離せないというか。

ちなみに私がホルガの欺瞞を感じたのは、ジョシュに関するシーン。クリスチャンやマークと違って、ジョシュに若い女性が近づかなかったのは、彼が黒人だったからではと邪推してしまいます。私の記憶の限り、ホルガの民に黒人はいなかったし……。

とにかく、アリ・アスター監督がホルガを危険な団体として描写してるのは間違いないと思います。

これからどこまで行ってしまうのかアリ・アスター

あえて邪悪な世界に身を落とすことが解放に見えてしまうほど、人生に絶望した人もいる。

『ミッドサマー』も『ヘレディタリー』もそういう話でした。アリ・アスター監督は、人生のどん底に落ち続けている最中に、悪魔の手をつかんでしまうような人たちに、共感しているんだと思います。

しかし、監督が『ミッドサマー』の元になる経験をしたのって、割とつい最近みたいなんだけど、大丈夫なんですかね。ちょっと監督の今後が不安になると同時に、ホラーファンとしては期待もしてしまうのでした。